生涯学習と速記

 生涯学習と速記について書いてみたいと思います。生涯学習は生まれてから死ぬまでの一生をとおしての学習のことであることは周知のとおりです。しかし一部には生涯学習は老人教育のことだと思っている方がおりました。

 平成6年11月11日に社団法人日本速記協会の平成6年度の総会では質疑応答がなく無事に終了しました。懇親会までに時間があったので懇談会になりました。そのときに「平成7年度事業計画(案)」の「結び」に関係したことが話題になりました。

 

「結び」には、

 平成6年の11月、文部省認定速記技能検定試験は110回を迎える。そして、速記を勉強したい、速記の検定試験を受験したい、速記者になりたいという問い合わせは、日々書面や電話によって全国から数多く寄せられている。しかし、一方、その声にこたえられるだけの学校、教授所等が現在余りにも少ない。

 そこで、速記勉学を希望する人々のために、速記に興味を持ってくれた人々のために、前にも触れたように、速記士証を保持する1人でも多くの会員が、速記の指導者となって、それ等の要望にこたえられる道を開いていきたい。

 また文部省が実施する「全国生涯学習フェスティバル」はもとより、国、地方公共団体、諸学校、その他が行う、生涯学習のためにあらゆる機会をとらえて、“国民皆速記”の旗印のもと、広く国民の書記能力の増進、記録事務の効率化、速記の普及発達に向け、本・支部一丸となって、また1人1人の会員が積極的にPRに努め、日本文化発展に寄与することを目的として、これからもたゆまざる活動を続けていきたい。

 

とありました。総会の参加者の中には“生涯学習”を老人教育であると思っていた人がおり、老人に速記を指導しても仕方がないという意見もありました。老人に速記の指導をすることも生涯学習の一部分であり、生涯学習とは果たして老人教育のことなのでしょうか。

 私は老人だけではなく、若い人達も含まれていると思います。速記は老人が人の話を速記するためのものだけではないと思っております。国字よりも2倍の速度でメモをすることができれば効果があるのではないかと思っております。それよりも手を動かすことによりボケを防止するのに効果があるのではないかと思っております。老人になれば物覚えも悪くなります。(これは老人だけに限ったことではありませんが……)現在でも速記は職業速記者のものだけであると考えている人もおるようですが、速記を早く書けることに越したことはありませんが、趣味としての速記(アマチュアの世界)があってもいいのではないかと思っております。

 社団法人日本速記協会が数年前から“国民皆速記”を旗印に運動を展開しようとしておりますが、速記界が一丸となって速記の普及をやっていかなければ、速記界はますます衰退をしていくのではないかと思っております。生涯学習に速記を“国民皆速記”運動として進めていくには、速記指導者の問題があります。職業速記者はたくさんおりますが、速記指導者が少ないのが現実です。速記指導者の養成もしなれればなりません。速記指導者として最低限必要な知識を要求されるのではないかと思いますし、生涯学習の知識も要求されるようになるのではないかと思います。職業速記者の養成は速記学校や養成所に任せておけばいいと思いますが、趣味としての速記(アマチュア)は速記の指導をする意欲さえあればだれにでもできるものなのではないでしょうか。速記方式はどの方式でもいいのであり、自己の習得した方式を指導すべきだと思っております。

 また早稲田式では速記指導者用テキストも作成をされております。和歌山県のYさんが「速記教育概論」や「速記要訣」などを発行されておりますが、これは他の速記方式にも十分に応用をすることができる書物でしょう。早稲田式以外の方は「速記教育概論」や「速記要訣」を自己の方式に応用をすれば必ず速記の指導をするのに役に立つはずです。

 結論は速記界の我々が“国民皆速記”運動を支援するかどうかにかかっていると思いますし、速記を後世に残すのは我々速記人の使命ではないかと思っております。

 

 

速記という言葉

 「速記」というのは、明治17年2月にできた言葉であり、矢野文雄(竜渓)が名づけ親だと言われている。日本における速記の元祖である田鎖綱紀(源綱紀ともいった)自身は「日本傍聴記録法(ジャパネースホノグラフヒー)」と称していた。

 西来路秀男著「速記入門ハンドブック」によると、当時「速記法」のことを

 傍聴記録法、記音学、疾書術、疾書法、捷書法、略書法、略記法、略記術、速書法、早書術、早書法、早書取、短記法、筆記法、 線上筆記法、言語速写法、ことば乃写真法、言語写真法、言葉の早取写真、話の紙取写真、写言術、写言学、書言学、速記学、速記術

などと言われていたと書かれている。

 では明治時代には、どのような名称を書名に使用していたのだろうか。下記のものは明治時代に使用したものである。

 傍聴記録法=田鎖綱紀(明治15年9月19日)

 傍聴筆記法=田鎖綱紀(明治1510月7日)

 傍聴筆記新法=黒岩 大(明治15年9月16日)

 速記=矢野文雄(竜渓)(明治17年2月 日)

 はやがきとり=林 茂淳(明治17年6月 日)

 速記術=林 茂淳(明治18年4月 日)

 言語速写法=清沢与十(明治18年3月 日)

 筆記学=森本大八郎(明治18年4月 日)

 速記法=小和田直太郎(明治18年6月 日)

 速記学=戸塚金逸(明治 年 月 日)

 筆耕新法=脇山義保(明治18年7月 日)

 ことば乃写真法=丸山平次郎(明治18年11月 日)

 言語速写法=亀井晴吉(明治19年5月 日)

 言論傍聴速写之術=藤井源太郎(明治19年6月 日)

 記音学=長 英生、木村栄次郎(明治19年9月 日)

 早書き取り=林茂 淳(明治28年7月 日)

 短記法=毛利高範(明治32年2月 日)

 写言術=日下部忠次(明治43年3月 日)

 早書学=田鎖綱紀(大正2年6月 日)

 早書法=岩村 学(昭和5年10月 日)

 日本速記年表には、

●福沢諭吉原輯・黒田行次郎校正「増補和解西洋事情」(福沢諭吉「西洋事情」初編の偽版)が京都で刊行され、黒田の収録した付録の部分に「疾書術(ステノガラヒー)」という1項目が掲載されていた。(慶応4年6月)

●慶応2年に香港で出版された英華字典に、

 Phonography(フォノグラフィー)=声音書法

と訳されていた。

●慶応2年及び慶応3年に江戸で再版された英和対訳袖珍辞書(A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language)改正増補版(初版は1862年、文久2年開成所)から刊行された、我が国における最初の英和辞書に、

 Shorthand=語ヲ簡略ニスル書法

 Shorthand writer=同上ヲ以テ書ク人

 Stenography=早書キヲスル術

と訳されていた。

●明治5年に春知新館から刊行された英和辞典(An English and Japanese Dictionary)に、

 Shorthand=減筆法

 Stenography=減筆写之法、早書キスル術

 Stenographer=早書キスル人、減筆写者

と訳されていた。

 明治22年当たりから「速記学」「速記法」という言葉が速記方式解説書に用いられるようになった。

 参考までに矢野文雄(竜渓)が書いた「速記法ノコトヲ記ス」の原文を掲げる。

 

速記法ノコトヲ記ス

(原文のまま)

余ハ西洋速記法(シヨルト、ハンド)ノ我邦ニ行ハレサルヲ憾ミ甞テ余ノ知人ニ説テ之ヲ創起セシメント企テシアリ然ルニ其後チ是業ヲ講習スル者アリト聞キ大ニ之ヲ賛翼セシニ何ソ図ラン今日其助ヲ借テ余カ此篇ヲ速成スルニ至ラントハ法庭ヤ議塲ヤ今日我邦ニ精密ノ筆記ヲ要スルノ地處ハ其數甚タ多々ナリ然ルニ其ノ筆記方ヲ問ヘハ概ネ皆漢文譯文体ニシテ人々ノ發吐セシ言語ヲ其儘精密ニ筆記スルモノニアラス已ニ漢文譯文体ヲ用ウル以上ハ如何ニ精密ニ之ヲ筆記スルトモ決シテ發吐セル言語ノ直証ト爲スニ足ラス是レ一大缺典ナリ假令ヒ我邦今日ノ文体ハ漢文譯文体ヲ用ヰテ言語ヲ其儘ニ冩用セサルニモセヨ大切ノ塲合ニ於テハ先ツ一旦ハ言語ヲ其儘ニ直冩セシメ然ル後チ之ヲ漢文譯文体ニ改書スルコソ願ハシケレ就中法庭ノ如キハ一言一語ノ問答モ審判上ニ緊要ノ關係ヲ有スルモノナレハ言語直冩ノ筆記法ノ必要ナルハ固ヨリ論ヲ待タス其他諸般ノ會議塲ノ如キモ亦タ然リ而シテ今日マテ未タ言語直写ノ筆記法ヲ用ウルニ至ラサリシハ遺憾トモ云フ可カリシニ今ヤ速記法ノ進歩已ニ斯ノ如キニ至ル以上ハ諸法庭諸會議塲ニ之ヲ利用スルノ日モ亦タ甚タ遠キニアラサルヘシ筆記ノ事、此ニ至テ後チ始メテ遺漏誤脱ノ憾ナキヲ得ン今左ニ若林氏カ余ノ爲メニ筆記セル速記法ノ字体ヲ冩シ世上未タ此技ヲ熟知セサル人ニ示ス氏ハ当時下谷御徒士町壱丁目六十三番地ニ在テ同志者ト與ニ速記法研究會ヲ設ケ専ラ此業ノ進歩ヲ謀レリ同氏ノ言ニ依レハ會席ニ於テ同業者二名若クハ三名ヲ備フレハ今日ニテモ言語ヲ其儘直冩スルニ漏脱ノ患ナカルヘシト云フ

速記法ノ字体

(省略)

 速記という言葉は、英語のShorthand(ショートハンド)またはStenography(ステノグラフィー)の訳語である。short は「短い」とか「簡単」という意味であり、hand は「手」という意味である。手で書くことから、「書く」とか「筆跡」いう意味になり、また「文字」という意味に使われる。

 アメリカやイギリスでは速記術(速記文字)のことをShorthandといい、普通の文字のことをLonghandと言われている。

 Stenographyのstenoはギリシャ語のstenos(狭い)から来ており、graphyは同じく graphia(書く、彫刻する)から来ている。このほかに速記を意味する英語としては下記のものがある。

 Phonography(フォノグラフィー)…………記 音 法

  ‖

 (sound)

 Phraseography(フレーゼオグラフィー)……略句記法

 Tachygraphy(タキグラフィー)……………速 書 法

  ‖ 

 (quick)

 Logography(ロゴグラフィー)………………略語記法

  ‖

 (word)

 Brachygraphy(ブラキグラフィー)…………短 書 法

  ‖

 (short) 

 Line-Writing(ライン・ライティング)……線 書 法

などがある。

 またドイツ語では

 Schnellchreibekunst(1728年)

  ‖は英語の

  rapid に当たる。

 Engschreibkunst(1795年)フリードリヒ・モーゼンガイル

  ‖は英語の       (Friedrich Mosengeil)(1773〜1839)

 short に当たる。 

 Kurzschreiben(クルツシュライベン)(1797年)カール・ゴッドリープ・ホルスティヒ

  ‖は英語の                (Karl G.Horstig)(1763〜1835)

 short の意。

 1813年にヨアヒム・ハイリンヒ・カンペ(1746〜1818)は、英語のStenographyの訳語としてKurzshift(クルツシュリフト)という単語を創案した。ドイツ語ではこの言葉が一般的に「速記」をあらわす単語として普及した。

 ちなみにフランス語では Stnographie  スペイン語では Taquigrafia

 ロシア語では СТЕНОГРАФИЯ

 中国と韓国では「速記」という漢字を使っているが読み方が違っている。「速記」という言葉は中国と韓国に渡った語である。

 

参考文献

速記入門ハンドブック:西来路秀男著(ハンドブック社)

速記の歴史〈西洋編〉:向井征二著(社団法人日本速記協会)

日本速記百年記念誌:日本速記百年記念会

 

 

明治初期における速記史考

 我が国の速記界は平成14年10月28日には「日本速記発表120周年」を迎えた。明治初期における速記史について考えてみたいと思う。

 明治15年9月19日の時事新報の第169号に、楳の家元園子(田鎖綱紀の戯号)の「日本傍聴記録法」という一文が掲載をされている。

 明治15年10月28日に田鎖綱紀が「日本傍聴筆記法講習会」の開講式が行われた日を、「速記記念日」としており、我が国における速記の創始者は田鎖綱紀とされている。

 では、田鎖綱紀以外に速記を考案した人はいなかったのかという疑問が起こるのは当然である。

 そこで下記の文献を調べて見た。

.「日本速記五十年史」 日本速記協会        昭和9年10月28日発行/編者・浅川 隼

.「国語速記史大要」 日本速記協会         昭和26年8月5日発行/著者・武部良明

.「日本速記年表」 日本速記協会          昭和27年9月23日発行/編者・三角治助

.「日本速記百年史」 日本速記百年記念会      昭和58年10月28日発行/編者・武部良明

.「日本速記年表」 日本速記百年記念会       昭和58年10月28日発行/編者・宮田雅夫

.荒井庚子郎追悼集「速記の跫音」 東京速記士会  平成8年11月26日発行/編者・畠山徳男

 

 「国語速記史大要」には

 当時、速記の効用を認め、洋書を手に入れ、あるいはその翻案に努めた人々に関しては、次のような記録がある。

 田鎖綱紀……明治5年、米人ロバートより速字の効用を教えられ、後にグラハム式に基づき国語速記方式を案出するに至った。(「日本傍聴記録法」)

 松島 剛……明治8年、西洋の雑誌によって速記の存在を知り、洋書を求めて翻案し、練習した。(「速記時論」第11号)

 畠山義成……明治9年、欧米の速記書を集め翻案したが、出版には至らなかった。(「速記之灯台」第2号)

 栗本貞次郎…明治10年、講義、演説、討論などの筆記に速記が役立つことを話した。(「速記雑誌」第4号)

 島田三郎……明治10年、速記は便利であるが、日本語にはうまく行かないと考えた。(「速記雑誌」第4号)

 寺島宗則……明治14年、「符牒のようなもので会議演説を筆記する法」を調査させた。(「日本速記会雑誌」第6号)

 金子堅太郎…明治14年、ガーニー式、グラハム式を調査させたが、日本語には適しないと結論した。(「日本速記会雑誌」第6号)

 林 茂淳……明治14年、速記の洋書を借りて読んだが、うらやむだけであった。(「日本速記会雑誌」第6号)

 黒岩 大、日置 益……明治15年、リンズレー式を翻案した。(「速記術大要」)

 辻 新次……明治15年、黒岩 大、日置 益両氏の翻訳に序を送った。(「議事演説討論傍聴筆記新法」)

 黒岩 大、日置 益……明治16年、リンズレー式を翻案した国語速記方式解説書「議事演説討論傍聴筆記新法」を出版した。(「議事演説討論傍聴筆記新法」)

という記述がある。

 日本速記百年の「日本速記年表」には

明治5年

 このころ、田鎖綱紀が米人工学士ロバート・G・カーライルに従学の余暇、同氏よりグラハム式のアメリカン・スタンダード・ステノフォノグラフィーの初歩を学び、自後欧米の書籍雑誌を数多く取り寄せてもらって日本への適用を工夫した。

明治8年

 このころ、松島剛(後にスペンサーの「社会平権論」を訳す)が西洋の雑誌でShorthandというものがあることを知り、丸善で小さな本を求めて友人とともに訳し、これを日本語に適用して練習を始め、そろそろ書けるようになったが、当時は他にいろいろ目的があったので、それっきりになってしまった。

明治9年1月

 このころ、畠山義成(東京書籍館長)が欧米の速記書を見て、2〜3人の人と速記(後の呼称)の研究に従事し、新符号を製して世に公にしようとしたが、書肆が出版をがえんじなかったために、ついに中止となった。

明治9年10月

 4月より米国百年期博へ出張中の畠山義成が帰国の途上船中で逝去した。

明治10年

 この年、畠山義成の蔵書が速記関係洋書も含めて東京書籍館に寄付された。

という記述がある。

 また「日本速記五十年史」には下記のような記述がある。

注1)原本及び原文は旧漢字、旧仮名遣いであるが、読みやすくするため現代表記に改めている。

注2)原文における「右」及び「左」は「前記」及び「下記」と改めた。

注3)「日本速記五十年史」の「日本速記術の起原」については森田恭平が担当をしている。

注4)森田恭平(明治31年6月〜昭和44年12月/貴族院速記練習所第1期生・貴族院速記技手)

 明治時代に入ってからの史料として今日挙げ得るものは次の三種である。

 第一は田鎖綱紀の談として大正15年8月1日発行の「キソレ会報」第5号に掲げられたものである。

 それから星移り物変わって、明治の聖代の恩沢に浴することになって、東京に出て参りました。私は大学南校に入りましたが、この大学南校では、そのころは科目というものは不完全であったのですけれども、スコットランドの学者でウィルソンという人が私どものクラスの受け持ち教師であった。私はその人に大変愛されました。また日本人の教師はかの榎本武揚先生の弟で、榎本弥兵衛という人でした。それからその弥兵衛先生を通じてしばしば私のところへよこしてくれと、こういってウィルソン博士から話があったので、私は始終行きますと、奥様が始終西洋の雑誌なんかを見せてくれました。その中に新着の雑誌、ポピュラル・エジュケーター、すなわち国民教育という、諸学科を簡易に書いた雑誌があった。これが非常におもしろい雑誌で、見ているうちにフォノグラフィーというもののレクチュアが書いてあった。読んでみるというと、かのアイザック・ピットマン氏の速記術の講義録である。……(中略)……その雑誌を見たのはちょうど明治3年のころでした。これはおもしろい字であるなと思ったが、そのポピュラル・エジュケーターで見ただけで、深く研究もしませんなんだ。……(中略)……

 ところが明治5年に至り今度はアメリカからロバート・G・カーライルという工学博士が来まして、またこの人のために私は捕虜になって、この先生と金鉱山へ行かなければならなかったので……カーライル先生とその鉱山に一緒にいる間に先生の細君のところからたびたび来る手紙を見せてもらうのです。……(中略)……この私の師たるカーライル夫人から来る手紙もまた常にドイツ語が入っているかと思えば、フランス語も入っている。ローマ字で書いたものならばこの雑種文もおいおいわかるようになったのですが、あるとき夫人から先生のもとへ来た手紙を先生が読んでみて、笑ったり憤ったりしていました。私はこれを傍観して、また例の雑種文だろうと思っていました。ちょっとのぞくといやはや何だかわからない。いつものとは違うように考えられる。私はカーライル先生に向かって、一体先生これは何ですか……と言うと、これは即ちアメリカン・スタンダード・ステノフォノグラフィーだという。アメリカの記音学というものだと言いました。そこで私は前お話しをしたピットマンのフォノグラフィーというものを思い出しました。……(中略)……

 ここに至って私の昔からの考えが勃然と起こって、私はこれこれこういうことを見たことはあるけれども、書くことを知りませぬから、どうぞ教えてくださいませぬかといって、それからポツポツ字の綴り方を教えてもらって、どうやらこうやら先生のレクチュアだけはやっと書けるようになった。日本の仮名で英語を書けばイット・イズ・ア・ドッグ……こういうような書き方をしておったのが、このライン・ライティングで明瞭に発音どおり書けるようになったのだからおもしろくてたまらない。別に速記文字を発明しようなどという考えもなかった。けれどもとにかくそれでやっている間に、1つこれでもって日本の言葉を書いたらおもしろかろう……こう思いついて日本語を書いてみようとしたが、なかなか書けない。いろいろやってみたけれども、どうしても米国の方法では日本語は書けない。無論カーライル先生は日本語を知らない。私はこれを相談すべきだれ1人相手もないので私1人でまあやってみよう、いろいろやってみているものですから、先生は私に、お前は何をやたらに毎日書いているのだと言われますから、実は私は日本語をフォノグラフィック・キャラクターで書いてみたいと思っております……。そうか、私も実はこの一般的キャラクターだけは知っているけれども、どうも詳細の学理を知らず、また早くも書けないからお前の相談相手にもなれないが、しかしお前の参考のために何か書物を取ってやろう、と言われて、いろいろな書物も400冊ばかり取り寄せてもらいました。それからその書籍や雑誌等について研究してみたが、1つも日本語を書くに助けをなすものはなかった。そうしている間に米国サイエンティフィック・アメリカンという学術雑誌が到着した。その中にロスアンゼルスのロングレーという人が、スパニッシュの速記術を発明したという記事があった。このスパニッシュ語というものは日本語に縁故があるかもしれないから、1つそれを取って上げよう、と先生が言われて、それをわざわざ取り寄せてくだすった。ところがやはり日本語は書ける方法ではない……(中略)……さてその後思いを翻して、父音と母音を合わして一字一字日本の語音を写し、また西洋語法によらず日本風に書くということに思いを凝らし、改良に改良を加えたのです。……(後略)……

 次に明治31年9月20日発行の「速記時論」第11号に松島剛氏談として下記のごとき記事が載せられている。

 私は明治8年ごろ西洋の雑誌を読んで初めて速記術(ステノグラフィー)というも  ののあることを知り、日本橋の丸善書店で小さな速記の本を買いまして、友人とともに訳して日本語にこれを適用し、かわるがわるに何か読んでは書きましたが、しまいにはそろそろ書けるようになった、その時分はほかにいろいろ目的があったからそれっきりになってしまいました。何でもそのころの手帳がどこかに取ってありました。云々。

 また明治23年11月発行の「速記之灯台」には下記のごとく載っている。

 日本にて速記に関せる最初の拡張者は旧書籍館長畠山義成氏にして同氏は明治9年のころ既に欧米の速記書を一閲し2〜3の人と速記の研究に従事しこの中より一新の符号を製し世に公にせんとて1〜2の書肆にはかられたるも何か当時の人情にてはその効用も十分世人に解しがたきをもって書肆も出版することをがえんぜず。ために一時中止せり。しかるにほどなく同氏はついに病死せられたり、同氏とともにこの速記に従事したるものは藤田積中氏、源某氏等もまたその仲間にありたりとのことなり、福沢(※諭吉)翁もまた一度海外にて速記術を修められたるもついにでき得ずべからずとてこれを放てきしたりという。

 その後明治15年のころ源綱紀氏日本傍聴筆記法として世に公にしたり。

 されば最初の拡張者は畠山義成氏なるべし。

 これらの記事に見ても明治8〜9年より数年間の演説流行時代に当時のいわゆる洋学を解した先進の間には速記または特殊の略記法のことに着想した人々のあったであろうことが前述の演説筆記の多く刊行され多く読まれたことに照らし合わせても察せられるのであるが、同時にこれが実際研究に着手した人、殊にある程度の成果に達した人に至っては極めて少なかったらしく、前掲の三者以外に知るべき資料がない。ただ神田乃武が英語の速記書を翻訳した(※?)ことが一部に伝えられているにすぎない。

 なおここに国会開設のことが速記発生の機運醸成に力あったことを証する好個の文献として、「日本速記界雑誌」第6号に林茂淳談として掲げられたものを転載しよう。林茂淳は当時元老院書記生として会議の議事筆記に従事していたのである。

 年月は記憶しませぬが明治14年の10月から15年の7月までの間の出来事でありますが、寺島元老院議長(宗則)が金子書記官に「西洋には符牒のようなもので会議演説などを筆記する法があるそうだが、1つ調査してみたがよろしい」という話があり、金子君は書記官の法学士合川正直君に調査をさせ、丸善からガーニーの略記法とグラハムのフォノグラフィーを買い入れて調べました。ところが金子書記官は米国法律学士、合川書記官は東京大学の法学士で、筆記というようなことは専門外であるから理解が十分にできなかったらしい、ガーニーの略記法の中から「Light and Darknessと書くかわりにL&Dと書け」というようなことを13行罫紙に1枚半ほど妙訳して、英語と日本語とは語が根本から違うゆえ日本ではこの法を実用に適せしむることはできないということを寺島議長に報告されてそのままになってしまった。

 私は「まさに明治23年を期し議員を召し国会を開き朕が初志を成さんとす」という詔勅も出たことであるからこの必要に応ぜんがため何とか便利な筆記の名方法はないものかと思い、その本を借りて辞書を引き引き読んでみたが、不肖の私はただ英語を書き取る仕方は便利にできているということをうらやむばかりでありました。

 かくして明治15年9月19日突如源綱紀によって時事新報紙上に日本速記術の誕生が報ぜられたのである。前掲のキソレ会報所載の田鎖綱紀談と、速記之灯台所載の畠山義成に関する記事とを対照すると……(源綱紀とあるは田鎖綱紀のこと)……そこに多少のそごがあるようであるが、今日に至っては二者いずれもこれを傍証すべき文献もなければこれを覆すべき資料もない。ようやく両方ともに史実として用いるのほかはあるまい。いかに余技的研究とはいえ、田鎖の着手が明治5年とすれば畠山義成の着手まで約5年、さらに田鎖の発表まで約11年にわたっているのは余り長きにすぎるようにも考えられるが、また一面今日とは文化の程度に甚だしき距離もあり、かつはそれだけ難事業であったためとも考えれば考えられる。ただ田鎖がともにはかってこれを研究すべき人がなかったと称している点と、畠山の研究に田鎖が参加したとの説とは全然鑿相容れざるも、この間に果たして幾ばくの関係ありや否やを調査するのは多少の興味ある仕事ではあろうが、今は既によるべき資料が全然ないと断ずるべきであろう。ただ仮にこの間多少の関係ありとするも、畠山が斯道より去って以後15年まで約6年、この間田鎖すなわち源綱紀がひとり鋭意考案をめぐらしてついにこれを世に問うに至ったことは疑うべくもない事実であろう。遺憾ながら当時の研究の模様あるいは過程の詳細は前掲の田鎖の談話中の簡約の記述以外具体的に発表されたものは存しない。またこれをも求むることも無理であろう。

 明治15年9月19日、時事新報第169号に発表された源綱紀の寄せ書きにおいても前掲の談話と同様着想の際の記述は相当書かれているが、その後の消息に至っては極めて抽象的である。楳の家元園子とは田鎖の匿名で、当時麹町元園町に住居していたところから来たものである。

という興味深い記述がある。

 松島剛や畠山義成が、欧米のどの方式を研究したのか触れられていない。

 明治8年(1875)を基準にして、欧米の方式で考えられるのは、

イギリス

  ガーニー式(1737)、テイラー式(1786)、ルイス式(1812)、ピットマン式(1837)、ブラッドレイ式(1843)、リンズレー式(1864)

アメリカ

  ベン・ピットマン式(1853)、グラハム式(1858)、マンソン式(1866)

ドイツ

  ガベルスベルガー式(1834)、シュトルツェ式(1841)、アレンズ式(1850)

フランス

  デュプロワイエ式(1867)

などがある。明治元年は1868年であるから、我が国では、江戸時代に発表をされたものばかりである。

 当時、我が国に入ってきた方式で判明しているものは、ガーニー式、ピットマン式、グラハム式、リンズレー式である。

 これらの文献を総合すると、松島剛は明治8年には日本語に適用して速度練習をしていたことになり、畠山義成は明治9年には研究が完成をしていたことになる。田鎖綱紀の方はまだ研究中だったことになる。

 また、畠山義成は藤田積中、田鎖綱紀とともに研究をしたことになるが、田鎖綱紀の書いた文献では畠山義成と藤田積中の記述がなく、1人で研究をしていたことになる。

 現在では松島剛、畠山義成の文献が出てこない限り、やはり幻の速記ということになるのだろうか。

 では、松島剛や畠山義成はどのような研究方法をとったのであろうか。

 「国語速記史大要」には、

  第3節 方式翻案の態度

 速記可能論者はどのようにして方式の翻案を遂げたか。その一例として、Lindsley“Elements of Tachygraphy”に対する「議事演説討論傍聴筆記新法」の翻案態度を検討すると、次のような対照が見られる。

 1.原書において画線を扱った第1章及び第5章は直訳された。

 2.原書において英語を扱った第2章及び画線と英語との関係を扱った第3章は意訳的傾向をとった。

 すなわち、原書に用いられている画線を、それの英語に対する関係と同じ状態において日本語に当てはめ、これらを原方式の英語におけると同じ法則によって連綴し、もって日本語の表記に用いたのである。つまり、分析的に日本語を把握し、後に音韻として説明されるに至った言語の形式的方面においてのみ、日本語と欧米語との類似点を見出したのである。

 もっとも、詳細に検討すると、次のような例外がある。

 1.〔ユ〕=〔L〕とし〔Y〕としなかった。

 2.〔フ〕=〔F〕とし〔H〕としなかった。

 3.〔チ〕=〔TH〕とし〔CH〕としなかった。

 4.〔ヂ〕=〔DH〕とし〔J〕としなかった。

 5.〔ワ〕=〔TH〕とし〔W〕としなかった。

 しかし、リンズレー式において〔Y〕〔H〕〔CH〕〔J〕〔W〕は、複画線であり、〔L〕〔F〕〔TH〕〔DH〕などは日本語の表記に不要な線であった。速字をもってローマ字のように日本語を表記することは可能であるが、速記のためには字形に必要以上の複雑性を求めるには及ばない。したがって黒岩案が不必要に複雑な線を避け、それと関係ある線をもって代用しようとした態度は納得できそうである。考えようによっては、この点が素朴な翻案態度より一歩進んだものとも言えるわけである。

 言語のいかなる要素に対して画線のいかなる要素をもって応ずるかに関し、リンズレー式は次のような態度をとっている。すなわち、父音は語における主要な要素であり、語における省くことのできない重要な部分を形づくる。これに対して母音は同じ語根が引き受ける意味のいろいろな相違を示す。かくのごとく、母音と父音との相違は極めて顕著であるからして、書き方においても正確な方式によってはっきりと区別されなければならない。この場合もしある父音は−のような線画によってあらわし、ある父音は〇のような点画によってあらわすというようにこれらの記号を混用すれば、非常につたないやり方になる。しかも幸いなことに、両者の数がほぼ相応じているから、線画を父音をあらわすに用い、また点画を母音をあらわすに用いた、というのである。しかしながら、黒岩はこの部分の翻訳に当たって、ただその最後の文句に応じただけである。

 翻訳の問題は、詳論に進に従って、ますます困難な状態に陥っている。例えば母音について見ると、リンズレー式はでは18個の母音的要素を長短、唇奥、単複の区別により、線の使い方でも濃線、曲直、単複と照応させている。これに対し、その中で日本語に存在すると考えた母音に近い形のみを抜き出す黒岩案では〔ア〕〔イ〕〔ウ〕〔エ〕〔オ〕に使用される5個の画線の採用されるに至った理由を失ってしまう。この際黒岩はおのおのに当てられた画線の形を、その母音を発音するときの動作に結びつけ、これを発音状態の模写と解することにより、もって原書におけるこの部分の説明にかえた。黒岩のこのような態度は父音の説明においても見られるのである。

 黒岩が発音と画線との間に模写性を認めたこの解釈は、現在の考え方から見れば間違っている。しかし、西洋のものこそ正しいもの、真理をつかんだもの、絶対的なもの、永久不変のものと、万事につけて考えられた時代である。黒岩は原書を見てまずその音価と画線との絶対性を認め、それを過信した。黒岩は原書における画線とその音価との関係をとにかく尊重した。それだからこそ、原案の有する画線につき、その音価に必要以上の変化を加えることなく日本語の表記に利用しようとしたわけである。こういう行き方はローマ字による日本語の表記という問題とあわせ考えても、極めて隠当であり、そこには一種の必然性を認めることができる。ゆえに、これはただ黒岩案だけの翻案態度ではなく、既にその史料の失われている明治初期において速記可能論者のとった一般的翻案態度であったと、一応は推定できるわけである。

という記述がある。

 

 松島剛や畠山義成が行った研究は、田鎖綱紀や黒岩大、日置益が行ったように欧米の方式を翻案していることが想像できるだけである。

 歴史には「もし」はつきものである。「もし松島剛がほかにいろいろな目的がなく、速記を発表していたら−」「もし書店が畠山義成の書籍を出版していたら−」「もし畠山義成が長生きをしていたら−」と考えると、我が国の速記界は別の系統が発達していたのではなかろうか。

 だが、「もし−」をつけても、もはやどうにも取り返しがつかないのが歴史である。死んだ子の年を数える、のたとえになりかねない。

 ここで残念に思うことが3つある。

1.明治31年9月20日発行の「速記時論」第11月号で松島剛談として取材をしていながら、松島剛に何式を研究したのか言及していないことであり、また、その手帳の写しを取っていないことである。

2.明治23年11月発行の「速記之灯台」第2号でも畠山義成のことに触れているが、明治10年に畠山義成の蔵書が速記関係洋書も含めて東京書籍館に寄付をされているのに、調査をしていないことである。

 いずれにしても、松島剛や畠山義成の文献はどこかに秘蔵をされているのではないか と推定をしてもよいのではなかろうか。

3.田鎖綱紀が第1回の講習会で紫刷りにしたものを使用したと伝えられているが、卒業生が17名もいるのに、そのときの資料やメモ類が一切残っていないのも不自然なことである。

 参考までに第1回の卒業生

 高柳虎次郎、奥村梅次郎、市東謙吉、蛯江曉村、竹内友三郎、三田泰光、蘆田東雄、勘解由小路資承、酒井昇造、千葉富壽、神尾珍、山縣萬吉、若林玵蔵、佐藤潤象、石原明倫、林茂淳、前田正一。

と判明をしているにもかかわらず、当時は資料の調査をしていない。

 

 また「日本速記五十年史」には

注1)「速記者団体の興亡」については安田勝蔵が担当をしている。

注2)安田勝蔵(明治10年11月〜昭和24年7月29日/石橋政二門下、貴族院速記技手を経て当時は貴族院速記練習所教官をしていた)

注3)石橋政二(明治9年8月〜昭和181111日/佃式/衆議院速記士、北海道会速記士)

第4編 速記者団体の興亡

  速記者談話会

 (前略)

 時は明治22年11月林茂淳、吉木竹次郎等はともに国会開設を目前に控えて我が速記界が従来のごとき小党分立、群雄割拠の姿であってはならない、よろしく大同団結もって共存共栄の実を挙げなければにらないとして勤説に努め、そうしてついに組織せられたのが「速記者談話会」なるものであった。これに参加する者たちまち60有余名の多きに達した。(中略)

 次に明治23年10月20日、速記者談話会第4回常集会において臼井喜代松より、日本速記術第1期の歴史を編さんすべし、との提議があった。その理由は「速記術も本年第1回帝国議会の議事筆記に応用せらるるに至りたれば、第1期の速記史を編さんするに適当の時期なるべく、また速記術の創始より研究に従事したる林、若林等のごとき歴史的人物いずれも生存しいるをもって、当初依頼の実情を探求するに最も便利なればなり、よって本会において委員を選び、第1期の日本速記術編さんを託せんとす」というのであった。この提案は多数にて可決し、佃与次郎の発議により編さん方法取り調べ委員5名を置くに決し、投票の結果林茂淳、若林?蔵、臼井喜代松、佃与次郎、薦野孝卿の5名が当選した。そうしてこれら委員の報告に基づき、明治24年1月30日、速記者談話会第5回常集会において下記のごとく議定した。

  日本速記術歴史編さん方法

 1.会員中より歴史編さん委員を選挙すべし

 2.委員に当選したる者はこれを辞することを得ず

 3.歴史編さん委員は下記の条件に従い明治25年1月常集会までにこれを報告すべし

 4.明治23年以前に係る速記術の歴史を編集すること

 5.歴史の書き方は編年体によること

 6.委員は歴史編さんに関する諸般の事項を議定し事務員に報告すべし

 7.委員の必要と認むるにおいては何時たりとも会員に対し史料の提供を請求することを得る

 8.委員は必要と認むるにおいては会員外に向かって史料供出を照会することを得る

 9.委員はみずから必要と認めて請求し、照会し及び会員もしくは会員外より厚意をもって供出したる史料を落手したるときは、その目録をつくり採用せざる史料にはその理由を付するを要す

 

 次に歴史編さん委員の選挙を行いたる結果林茂淳、若林玵蔵、佃与次郎、臼井喜代松、伊藤新太郎、酒井昇造、薦野孝卿の7名が当選をした。しこうしてまた前記委員中より理事2名を互選することになって林茂淳、臼井喜代松がこれに当たることになった。

 以上は明治23年10月臼井喜代松によりて提唱され、甲論乙駁微に入り細にわたって審議考究されたものであって殊に臼井喜代松の日本速記術歴史編さん論に至ってはその用意の周到なる実に三嘆おくあたわざるものがある。その詳細は明治24年1月発行の速記彙報第26冊及び衆議院事務局内衆速会発行大正15年6月の帝国議会速記史編集史料第1集に載録せられている。おしむべしこの企画は非常な意気込みで見事献立はでき上がったが、竜頭蛇尾ついに何らなすところなくうやむやのうちに葬り去られたことは返す返すも遺憾のきわみである。(後略)

という興味深い記述がある。

 

 上記のように、当時の速記界では速記史の編さんに対して熱心だったのは臼井喜代松だけであり、他の速記者は速記史の編さんをする気持ちが全くなかったという状況だったのではなかろうか。

 当時の速記界では田鎖綱紀、若林玵蔵、林茂淳たちが現役であった。臼井喜代松自身が文献等の収集をしたり、速記関係者に取材をすれば、速記史の編さんが可能だったはずである。

 以上のように「日本速記百年史」を読むと「日本速記五十年史」や「国語速記史大要」に比較すると詳しく書かれていない部分が多すぎる。

 「日本速記百年史」あくまでも速記通史であるが、速記界では速記史の「資料編」を作成する必要があるのではなかろうか。

注)

鑿相容れざるも(ぜいさくあいいれざるも)=性質の違ったものは強調することができないという意味。

※速記時論(速記同志会/貴衆有志/明治29年3月〜明治36年1月)(第26号まで)

※速記之灯台(日本速記器学院/藤木顕道/明治23年9月〜明治23年12月)(第4号まで)※キソレ会報(キソレ会/大正12年5月〜昭和13年)(第12号まで)

※松島剛(数年後にスペンサーの「社会平権論」を訳す)

※畠山義成(東京書籍館長/明治9年10月病死)

※藤田積中(不明)

「議事・演説・討論傍聴筆記新法」の著者

※校訂者・神田乃武(後の英語学者。明治4〜12年米国で学ぶ。このころは24歳で、東大予備門の教諭をしていた)

※訳補者・黒岩 大(周六、涙香。このころは22歳で、新聞記者をしていた)

※訳補者・日置 益(後の駐独大使。このころは23歳、東大卒業前である)

 

 荒井庚子郎追悼集「速記の跫音」には、下記のような興味深い記述があるので紹介をしてみたい。

 

 幻の速記

 日本の速記は一応田鎖綱紀が日本橋通2丁目の小林茶亭で日本傍聴筆記法講習会の開講式を行った明治15年(1882年)10月28日を誕生日としている。昭和57年(1982年)には百年に当たるので、盛大に記念行事を催したいという計画もあるようであるが、それでは明治15年以前には速記はなかったのか、突如として田鎖速記がこの世にあらわれたのかということを、この機会に考えてみることも興味があるのではないか。

 何かあったのではないか。幻の速記がはるかかなたに見えるような気もする。幻の速記を追ってみたい思いに強く憑かれた。

 日本速記発表八十周年記念会刊行の日本速記八十年史と日本速記年表によると、明治8年に松島剛が「西洋の雑誌でショーシハンドというものがあることを知り、丸善で小さな本を求めて友人とともに訳し、これを日本語に適用して練習を始め、そろそろ書けるようになったが、当時は他にいろいろ目的があったので、それっきりになってしまった」とある。それから明治9年に畠山義成が「欧米の速記書を見て、2〜3の人と速記の研究に従事し、新符号を製して世に公にしようとしたが、書肆が出版をがえんじなかったために、ついに中止になった」とある。

 とにもかくにも一応日本語速記らしいものを考案したものとして伝えられているのは、この2件であるが、既に明治以前の慶応時代に福沢諭吉がワシントンに行ったとき、速記者が速記をしているのを見て驚いて、友人とともに速記の本を買って、何とか日本語でもできないかといろいろやってみたが、うまくいかなかったという話も伝えられている。それで慶応4年の福沢諭吉原輯、黒田行次郎校正の増補和解西洋事情という本には、疾書術という1項目が掲載されている。

 明治の初年多くの人々が欧米に行ったので、その人々が直接速記に接する機会があったろうし、また外人の教師、技師等も多数日本に来たので、それらの人から速記があることを知らされたことも想像される。また洋書の輸入もあったので、欧米の速記本の輸入もあったろう。これらによって日本人の間に速記のあることが知られ、日本語速記を創案しようとした人々があったとみてもよいであろう。無論田鎖もその1人であったが、今日伝えられているのは、松島、畠山の2人だけで、その他の多くあったであろう人々の名は伝えられず、田鎖が元祖という栄名を受けることになった。果たして幻の速記はなかったのか。

 ところが、ここに幻の速記があらわれた。オール読物昭和50年4月号所載の出井孫六氏のアトラス伝説という小説の中にである。これはまことに驚きで、もしもこれが真実ならば、速記の歴史は正に書きかえられるであろうほどのものである。

 明治14年の春であった。九鬼隆一なるものが川上冬崖を葬り去るために策略を用いて山縣陸軍卿に近づいたが、その九鬼が「現今美術界の趨勢を憂う、文学士九鬼隆一−京都商工会議所における講演速記」という冊子を川上塾頭の小山正太郎のもとに送ってきたのである。

 明治14年のことである。あるいは13年のことかもしれない。京都商工会議所では九鬼隆一が講演をした。それを速記者が速記したというのである。京都に速記者がいたのか、東京から連れていったのか不明であるが、正に速記者がいて速記したのである。15年の田鎖速記の発表以前の13年か14年に既に日本語の速記が発案されていた。しかも実用されていた。こうなると、一体どうなってんのと首をかしげたくなる。

 幻の速記が現実にあったのだ。文献によれば松島、畠山速記しかない。松島が友人とともに練習をしたという。この友人の系統かもしれない。あるいは畠山速記を何らかの伝手で入手したものが、実用にまで完成したのかもしれない。あるいは伝えられていないが、その他の人々による幻の速記が、そこにあったのかもしれない。その幻の速記がどんなものであったか。空想はそれからそれへと限りなく拡がっていく。

 幻の速記が現実にあった。

 さて、ここで夢は現実に戻る。

 このアトラス伝説は小説である以上フィクションとみてもいい。しかしまず素材としてこの小冊子が実在なものかどうか。これは作者に照会すれば、それでいとも簡単明瞭である。作者のフィクションであると言われればそれで終わりである。もしもこれが実在するとなると、さてどうなるか。

 まず九鬼隆一は文部技官という官名で書かれているが、明治14年に文部技官という官名があったかどうか疑問である。文学士とあるが、明治10年に東京大学ができているので、あるいは文学士はあったかもしれない。しかし京都商工会議所が少し引っかかる。明治初年には商法会議所といったが、明治35年に商業会議所になった。商工会議所というのは、昭和28年からである。明治14年に京都商工会議所があったということは、どうもおかしい。講演速記とあるが、一体講演という言葉が使われ出したのは、いつごろであろうか。江戸時代に使われていたものかどうか。これも古いものを調べないと断言できないが、何だか明治14年ごろにはまだ一般には使われていなかったような気もする。

 さて最後の「速記」であるが、これは明治17年(1884年)に矢野文雄が経国美談を若林玵蔵に口述速記させ刊行したときに、「速記」という言葉を矢野が初めて用いたのが速記の始まりで、それから「速記」という言葉が定着したので、それまでは疾書術、疾書法、減算法、早書き術、速書法、日本傍聴筆記法などといろいろ言っていた。14年にはまだ速記という言葉はなかったはずである。

 となると、もし仮にその冊子が実在したとしても、どうもおかしい。後世の偽作かもしれない。作者のフィクションであることをむしろ祈りたい。伝えられない幻の速記があったかもしれないが、少なくともこの14年か13年に京都で速記者が速記したという事実は、この冊子からは肯定できない。

 幻はやはり幻であった。目に見えないから幻である。しかしどっかに幻の速記はあるかもしれない。無限に続く幻の速記探求の旅である。

 (品川弥次郎/「速記時報」130号/昭和50年10月号)

 次に田鎖綱紀が時事新報に投稿をした「日本傍聴記録法」の創案宣言を紹介したい。

 

日本傍聴記録法ジャパネースホノグラフヒー)

楳の家元園子(うめのやもとぞのし)

 今ヤ我邦府ニ府会アリ県ニ県会アリ郡ニ郡会アリ区ニ区会アリ町村ニ町村会アリ其他何々等ノ公私ノ会合アラザルノ地ナキニ至レリ此会合中一時ノ如キハ固ヨリ此議事ノ記録ヲ要セザルモノナレドモ苟クモ其会合ハ議会ニシテ原案ヲ討議シ又ハ世務諮詢知識交換等ノ為メニスル者ナルトキハ皆必ラズ其議事ノ記録ヲ要スル者ニシテ之ヲ公ニセザルモ永遠ニ保存スルヲ欲セザルモノハアラザル可シ。加之文運ノ隆盛新聞雑誌ノ発刊流行ノ今日ニ至リ学術ノ講義ニ弁士ノ演説ニ法廷ノ口供ニ其他百般ノ事実ヲ夕ニ聞テ旦ニ新聞ニ記載シ自ラ任ジテ天下ノ耳目ト為リ其報道ヲ敏捷ナラシメ、日夜桔据勉励セラルヽハ如何ニ新聞記者ノ職分トハ謂ヒナガラ随分世話ノ焼ケタル面倒臭キ仕事ナル可シ、然ルニ大喝一声議長本員ハノ府県会ヨリ諸君ヨ我輩ハノ演説等ヲ傍聴シタル筆記ナリトテ新聞雑誌ニ掲載シアルヲ見ルニ其議事演説ヲ傍聴シタル筆記者ガ幸ニ文才アル人ナレバ議場ニテ傍聴シタル発議ヤ、或ハ演説シタル事柄ノ格別ニ名論妙趣向ト思ハレザリシモノモ記録上ニテハ天晴名論妙趣向ト存スルコトモアリ、又之ニ反シテ不幸ニモ迂文不識ノ書記先生アリテ筆ヲ執ラルヽアラバ議員ヤ弁士ガ夜ノ目モ寝ズニ考エタル名説卓見モ其記者先生ノ筆ノ不働キニテ遺損ネラレ折角ノ名説卓見モ其論旨不明ニシテ隔靴掻痒ノ感ヲ免レザルガ如く無茶苦茶ニ書立テラレナバ其レコソ誠ニ困タ仕合ト申サヾルヲ得ザルナリ蓋如斯筆記者先生ハ萬々アルベカラザルコトハ存スレドモ決シテ之レナシトノ保証ハ為シ得可ラザルコトナリ。

 併シナガラ十ガ十、百ガ百揃モ揃ツテ筆記ニ妙ヲ得タル人ヲ得タルコトモ難ク多少ノ間違ヒヲスル先生モアレバ蛇足ヲ加フル先生モアリテ傍聴ノ記録上文意ハ大同小異ナレドモ各記者ノ筆記シタル所十人寄レバ十色ノ文句ニテ言語ニ述ベタルモ文章ニテハ落タル所アリ、又言語ニ述ベザルモ文章ニ記載シタル所アルハ屡々聞見スル所ニシテ筆記ト事実トヲ異ニスルノ歎ヲ免レザルナリ是レ必竟其筆記者ノ罪ニ非ズ元来本邦ニテハ言語上ト文字上トノ語格ニ於テ一定ノ規矩アラザルノミナラズ一定ノ傍聴筆記法モナキガ故ナリ。

 欧米諸国ニ於テハ既ニ一定ノ傍聴筆記法アリ英国ニ「イングリシ・ホノグラフヒー」米国ニ「アメリカン・ホノグラフヒー」ト云ヘル細大洩サズ発言討議ヲ傍聴筆記スルノ法アリ、英国ニテハ「アイザツク・ピツトマン」氏ノ発明スル所ニシテ、米国ニテハ「アンドレウ・ジー・グラハム」氏之ガ嚆矢タリ「ホノグラフヒー」ヲ通俗「シヨルト・ヘンド」(短記ノ義)ト云フ今之ヲ訳言シテ傍聴記録法ト称セン乎余リ長タラシキ名称ナガラ却テ陳糞漢語ノ六ツカシキ二字カ三字ノ熟語ヲ附シテ通ゼザルヨリハ寧ロ我人ニ解シ易ク人口ニ膾炙スル文字ヲ附スル方増シナル可シト斯ク訳字ヲ附シタルナリ。

 抑モ此「ホノグラフヒー」ハ傍聴筆記スルニ一種特別至極簡単ナル記号ヲ用ヒ如何ナル長談雑話ニ至ル迄モ其発言通リニ記載スルコトヲ得ルノ法ニシテ会議ニマレ辻講釈ニマレ安房多羅経ニマレ傍聴シ得ル事柄ハ其発露シタル言葉通リニ記録スルコトヲ得ルノ名法ナリ、小生曩ニ米国ノ学士「ロバアト」氏ニ従学ノ際諸邦ニ羈旅ス或日同氏ノ細君ヨリ一書ノ来ルアリ同氏披見シ或ハ嘆キ或ハ悦ビ、或ハ怒リ、独リ大ニ感ズルモノヽ如シ、小生氏ノ傍ニ在ルモ其謂ヒテ知ラザレバ小生氏ニ問テ曰師父今細君ノ書ヲ得テ大感激ヲ起シタルハ抑モ何ノ謂ゾヤト、氏其書ヲ小生ニ示シテ曰ク、之レ某ノ会合傍聴記事ナリト小生此書ヲ見ルニ「タアキー」字ノ如クニモ見エ、亦「グリーキ」字カトモ疑ハルレ共何ヤラ蚯蚓ノ如ク奇々怪々ノ形状ニテ始メテ横文ヲ見タル時ト同様ノ感ヲ為セリ、此書ハ即チ記録法ノ記号ヲ以テ書シタルモノニシテ始メテ其用法及ビ重宝ナル所以ヲ詳ニ明示セラレタリ、小生其用法ノ誠ニ我邦ニモ亦必ラズ須要ナルヲ信ジ氏ニ従学ノ余暇ニ之ヲ学バンコトヲ乞ヒ、稍少シク其記号ノ一班ヲ知ルニ及ンデ俄然我師疾病ニ罹リ、遂ニ養生叶ズシテ黄泉ニ客トナレリ。故ニ小生半途ニシテ其望ヲ失ヒ意ヲ果ス能ハズ、然ルモ此法ヲシテ他日必ズ我邦ニ使用シ裨益スルコトアラントノ念慮ヲ起シタルハ恰モ明治五年ノ頃ニシテ爾来面語スル人毎ニ此法ノ便益ナル所以ヲ説キ、我邦音語ニ適ス可キノ記号ヲ製シ、互ニ之ガ使用ヲ試ミ、以テ其得失ヲ考究セント謀ルモ或ハ美挙ナリ銘趣向ナリト妄リニ称賛スルモノアレドモ、今ニ至ル迄一人トシテ共ニ謀ツテ之ガ隆盛ヲ企テ、一ノ記号ダニ製シ得タルモノハ非ルナリ。然レドモ小生ハ何ゾ之ヲ任地主義(リセスヘーヤ)ニ附ス可ケンヤト独リ考案ヲ回ラシ、最初六十有余ノ記号ヲ製シ之ヲ転用シテ三千六百有余ノ語ヲ作リ使用ヲ試ミタリシモ屡々実際ニ混雑ヲ生ぢ漸次語数ヲ増加シテ遂ニ九萬有余ノ語ヲ収輯シタル一ノ字体ヲ製シタリシガ、先年不慮ノ禍災ニ罹リ右ニ関スル書類及ヒ其他ノ物品ト共ニ紛失シ累年ノ辛苦モ全ク烏有ニ属シ、終日落胆スルモ何ゾ紛失シタルノ物品再ビ出ツ可ケンヤト又モ工夫ヲ回ラシ、漸ク今年ニ至リ簡単ナル一法ヲ考出シ、一百有余ノ単音記号二百有余ノ複音記号ヲ製シ、之ヲ転用シテ如何ナル混雑シタル萬般ノ記事論文俗談平話ト雖モ容易ニ差支ナク記録シ得可キノ法ヲ考定セリ。然レドモ之ヲ世ニ公ニシテ広ク裨益スル所アラントスルニハ素ヨリ小生一人ノ能クナシ得可キコトニ非レバ聊カ新聞ノ余白ヲ汚シテ小生ガ微衷ヲ記シ、江湖同志ノ士ト共ニ与ニ研究センコトヲ謀ラントス。諸君幸ニ賛成スル所アレ

 以上がその原文の全文である。漢字のみ新字体に直している。

※出典:日本速記五十年史

読みやすくするため現代表記に直した。

 今や我が国、府に府会あり、県に県会あり、郡に郡会あり、区に区会あり、町村に町村会あり、その他何々等の公私の会合あらざるの地なきに至れり。この会合中一時のごときはもとより、この議事の記録を要せざるものなれども、いやしくもその会合は議会にして原案を討議し、または世務諮詢、知識交換等のためにする者なるときは、皆必ずその議事の記録を要する者にして、これを公にせざるも永遠に保存するを欲せざるものはあらざるべし。しかのみならず文運の隆盛、新聞、雑誌の発刊流行の今日に至り学術の講義に弁士の演説に法廷の口添えに、その他百般の事実を夕に聞いて、あしたに新聞に記載しみずから任じて天下の耳目となり、その報道を敏捷ならしめ、日夜、桔据勉励せらるるは、いかに新聞記者の職分とはいいながら随分世話のやけたる面倒くさき仕事なるべし。しかるに大喝一声議長本員はの府県会より、諸君よ我輩はの演説等を傍聴したる筆記なりとて新聞雑誌に掲載しあるを見るに、その議事演説を傍聴したる筆記者が幸いに文才ある人なれば議場にて傍聴したる発議や、あるいは演説したる事柄の格別に名論妙趣向と思われざりしものも、記録上にてはあっぱれ名論妙趣向と存ずることもあり、またこれに反して不幸にも迂文不識の書記先生ありて、筆を執らるるあらば議員や弁士が夜の目も寝ずに考えたる名説卓見もその記者先生の筆の不働きにて、やり損ねられせっかくの名説卓見もその論旨不明にして隔靴掻痒の感を免れざるがごとくむちゃくちゃに書き立てられなば、それこそまことに困った幸せと申さざるを得ざるなり。けだしかくのごとき筆記者先生は万々あるべからざることは存ずれども、決してこれなしとの保証はなし得べからざることなり。

 しかしながら十が十、百が百そろいもそろって筆記に妙を得たる人を得たることも難しく多少の間違いをする先生もあれば、蛇足を加うる先生もありて傍聴の記録上文意は大同小異なれども各記者の筆記したるところ十人よれば十色の文句にて言語に述べたるも文章にては落ちたるところあり、また言語に述べざるも文章に記載したるところあるはしばしば聞見するところにして筆記と事実とを異にする嘆きを免れざるなり、これひっきょうその筆記者の罪にあらず、元来本邦にては言語上と文字上との語格において一定の規矩あらざるのみならず、一定の傍聴筆記法もなきがゆえなり。

 欧米諸国においては既に一定の傍聴筆記法あり英国に「イングリッシュ・フォノグラフィー」米国に「アメリカン・フォノグラフィー」といえる細大漏らさず発言討議を傍聴筆記するの法あり、英国にては「アイザック・ピットマン」氏の発明するところにして、米国にては「アンドリュー・ジー・グラハム」氏これが嚆矢たり「フォノグラフィー」を通俗「ショート・ハンド」(短記ノ義)という。今これを訳言して傍聴記録法と称せんや、余り長たらしき名称ながらかえってちんぷん漢語の難しき二字か三字の熟語を付して通ぜざるよりは、むしろ我人に解しやすく人口に膾炙する文字を付する方ましなるべしとかく訳字を付したるなり。

 そもそもこの「フォノグラフィー」は傍聴筆記するに一種特別、至極簡単なる記号を用い、いかなる長談雑話に至るまでも、その発言通りに記載することを得るの法にして会議にまれ辻講釈にまれ安房多羅経にまれ傍聴し得る事柄はその発露したる言葉通りに記録することを得るの名法なり、小生さきに米国の学士「ロバート」氏に従学の際諸邦に羈旅す。ある日同氏の細君より一書の来るあり同氏披見し、あるいは嘆き、あるいは悦び、あるいは怒り、独り大いに感ずるもののごとし、小生氏の傍にあるもそのいいて知らざれば小生氏に問いていわく。師父今細君の書を得て大感激を起こしたるは、そもそも何のいうぞやと、氏その書を小生に示していわく。これそれがしの会合傍聴記事なりと小生この書を見るに「タアキー」(※トルコ)字のごとくにも見え、また「グリーキ」(※ギリシャ)字かとも疑わるりども何やらみみずのごとく奇々怪々の形状にて、始めて横文を見たるときと同様の感をなせり。この書は即ち記録法の記号をもって書したるものにして、始めてその用法及び重宝にるゆえんをつまびらかに明示せられたり。小生その用法のまことに我が国にもまた必ず須要なるを信じ氏に従学の余暇にこれを学ばんことを請い、やや少しくその記号の一班を知るに及んで俄然我師疾病にかかり、ついに養生叶ずして黄泉に客となれり。ゆえに小生半途にしてその望みを失い意を果たすにあたわず、しかるもこの法をして他日必ず我が国に使用し裨益することあらんとの念慮を起したるは、あたかも明治五年のころにして、自来面語する人ごとにこの法の便益なるゆえんを説き、我が国音語に適すべきの記号を製し、互いにこれが使用を試み、もってその得失を考究せんとはかるも、あるいは美挙なりと銘趣向なりとみだりに称賛するものあれども、今に至るまで一人としてともにはかってこれが隆盛を企て、一の記号だに製し得たるものはあらざるなり。しかれども小生は何ぞこれを任地主義(リセスヘーヤ)に付すべけんやとひとり考案を回らし、最初六十有余の記号を製しこれを転用して三千六百有余の語をつくり使用を試みたりしも、しばしば実際に混雑を生じ漸次語数を増加してついに九万有余の語を収集したる一の字体を製したりしが、先年不慮の禍災にかかり右に関する書類及びその他の物品とともに紛失し累年の辛苦も全く烏有に属し、終日落胆するも何ぞ紛失したるの物品再び出ずべけんやとまたも工夫を回らし、ようやくことしに至り簡単なる一法を考出し、一百有余の単音記号二百有余の複音記号を製し、これを転用していかなる混雑したる万般の記事、論文、俗談、平話といえども容易に差し支えなく記録し得べきの法を考定せり。しかれどもこれを世に公にして広く裨益するところあらんとするにはもとより小生一人のよくなし得べきことにあらざれば、いささか新聞の余白を汚して小生が微衷を記し、江湖同志の士とともに、ともに研究せられんことをはからんとす。諸君幸いに賛成するところあれ。

※人口に膾炙する(かいしゃ=広く世間の話題になる)

※羈旅(きりょ=旅行)

 最後に矢野文雄(竜渓)が書いた「速記法のことを記す」を紹介して、この原稿の結びとしたい。

 

速記法ノコトヲ記ス  

矢野文雄(竜渓)

 余ハ西洋速記法(シヨルト、ハンド)ノ我邦ニ行ハレサルヲ憾ミ甞テ余ノ知人ニ説テ之ヲ創起セシメント企テシコトアリ然ルニ其後チ是業ヲ講習スル者アリト聞キ大ニ之ヲ賛翼セシニ何ソ図ラン今日其助ヲ借テ余カ此篇ヲ速成スルニ至ラントハ

 法庭ヤ議塲ヤ今日我邦ニ精密ノ筆記ヲ要スルノ地處ハ其數甚タ多々ナリ然ルニ其ノ筆記方ヲ問ヘハ概ネ皆漢文譯文体ニシテ人々ノ發吐セシ言語ヲ其儘精密ニ筆記スルモノニアラス已ニ漢文譯文体ヲ用ウル以上ハ如何ニ精密ニ之ヲ筆記スルトモ決シテ發吐セル言語ノ直証ト爲スニ足ラス是レ一大缺典ナリ假令ヒ我邦今日ノ文体ハ漢文譯文体ヲ用ヰテ言語ヲ其儘ニ冩用セサルニモセヨ大切ノ塲合ニ於テハ先ツ一旦ハ言語ヲ其儘ニ直冩セシメ然ル後チ之ヲ漢文譯文体ニ改書スルコソ願ハシケレ就中法庭ノ如キハ一言一語ノ問答モ審判上ニ緊要ノ關係ヲ有スルモノナレハ言語直冩ノ筆記法ノ必要ナルハ固ヨリ論ヲ待タス其他諸般ノ會議塲ノ如キモ亦タ然リ而シテ今日マテ未タ言語直写ノ筆記法ヲ用ウルニ至ラサリシハ遺憾トモ云フ可カリシニ今ヤ速記法ノ進歩已ニ斯ノ如キニ至ル以上ハ諸法庭諸會議塲ニ之ヲ利用スルノ日モ亦タ甚タ遠キニアラサルヘシ筆記ノ事、此ニ至テ後チ始メテ遺漏誤脱ノ憾ナキヲ得ン

 今左ニ若林氏カ余ノ爲メニ筆記セル速記法ノ字体ヲ冩シ世上未タ此技ヲ熟知セサル人ニ示ス氏ハ当時下谷御徒士町壱丁目六十三番地ニ在テ同志者ト與ニ速記法研究會ヲ設ケ専ラ此業ノ進歩ヲ謀レリ同氏ノ言ニ依レハ會席ニ於テ同業者二名若クハ三名ヲ備フレハ今日ニテモ言語ヲ其儘直冩スルニ漏脱ノ患ナカルヘシト云フ

速記法ノ字体

(省略)

 

※出典:経国美談後編(報知新聞社)明治17年2月発行/矢野文雄(竜渓)著/巻末付録

※出典:日本速記五十年史

読みやすくするために現代表記に直した。

 余は西洋速記法(ショートハンド)の我が国に行われざるをうらみ、かつて余の知人に説いてこれを創起せしめんと企てしことあり。しかるにその後、この業を講習する者ありと聞き大いにこれを賛翼せしに何ぞ図らん。今日その助けを借りて余がこの編を速成するに至らんとは

 法廷や議場や今日我が国に精密の筆記を要するの地、ところはその数甚だ多々なりしかるにその筆記方を問えば、おおむね皆漢文訳文体にして人々の發吐せし言語をそのまま精密に筆記するものにあらず。既に漢文訳文体を用うる以上は、いかに精密にこれを筆記するとも決して發吐せる言語の直証となすに足らず。これ一大欠点なり。たとい我が国今日の文体は漢文訳文体を用いて言語をそのままに写用せざるにせよ、大切の場合においてはまず一旦は言語をそのままに直写せしめ、しかる後これを漢文訳文体に改書するこそ願わしけれ。なかんずく法廷のごときは、一言一語の問答も審判上に緊要の関係を有するものなれば、言語直写の筆記法の必要なるはもとより論を待たず。その他諸般の会議場のごときもまたしかり。しこうして今日までいまだ言語直写の筆記法を用うるに至らざりしは遺憾ともいうべかりしに今や速記法の進歩、既にかくのごときに至る以上は、諸法廷諸会議場にこれを利用するの日もまた甚だ遠きにあらざるべし。筆記のこと、ここに至りて後始めて遺漏誤脱のうらみなきを得ん。

 今左に若林氏が余のために筆記せる速記法の字体を写し、世上いまだこの技を熟知せざる人に示す。氏は当時下谷御徒町(※)一丁目六十三番地にあって同志者とともに速記法研究会を設け、専らこの業の進歩をはかれり同氏の言によれば、会席において同業者二名もしくは三名を備うれば、今日にても言語をそのまま直写するに漏脱の患いなかるべしという。

※下谷御徒町(したやおかちまち)現在の東京都台東区